300. キャナリー・ロウ

キャナリー・ロウ (Cannery Row)という名前が最初に印刷されたのは1919年。キャナリーとは缶詰工場のこと。当時オーシャンビューアベニュー (Ocean View Avenue)と呼ばれていた通りを描写したものでした。誰かがイワシを缶詰にしようと思いつくずっと前から、モントレー・ベイ(Monterey Bay )では人々が漁業によって生計を立てていました。 最初の本物の「商業」漁師は、モントレー(Monterey)の先住民であるラムセン(Rumsien)の人々です。ラムセンの平和なコミュニティーは5000年近く前にまで遡り、今日キャナリー・ロウと呼ばれるこの場所でアワビを収穫し、イワシ、セグロイワシ(アンチョビ)、メバルを釣っていました。 最初の缶詰工場は、当初、サケとアワビを箱詰めし、後に缶詰にしたパシフィック・ミューチュアル・フィッシュ・カンパニー (Pacific Mutual Fish Company)です。同社を所有、経営したのは野田音三郎(おとさぶろう)という日本人の商人でした。彼はモントレー・ベイの豊かな海の幸に深く感銘し、日本人の漁師を増やし、1896年までには、モントレー初の日本人街が確立しました。 他の漁師や缶詰業者も、「Silver harvest(銀の収穫)」と呼ばれた豊かな銀色の海の幸を収穫し始め、まもなく通りは世界各国からやってきた作業者で賑わい、際限ないと思われた多量の魚介類を加工しました。 この場の海の幸の王様はイワシ。モントレーは「イワシの世界首都」になりました。1938年までには、全稼働の缶詰工場と還元工場の数は19社にのぼりました。これらの工場は何百人という作業員を雇い、地元経済に何億ドルももたらしました。 漁船が港に着き、収穫物を降ろすと、缶詰工場が作業員を呼ぶために鳴らす笛の音で空気が包まれました。それぞれの工場の作業員を呼ぶ音は異なりました。 1941~1942の漁獲期には、25万トンのイワシが獲れ、缶詰や肥料、ニワトリのエサにされました。誰もがその繁栄は永遠に続くと思っていました。しかし1950年代の初期、イワシの食べ物に影響する海水の気温変化、その他の環境問題、そして乱獲によって水産業は崩壊します。 水産業の崩壊は、漁業経済を消滅させました。サバとイカの缶詰を行っていた最後の缶詰業者が閉鎖したのは1973年です。 その後、保護活動がカリフォルニアのイワシ数の回復を助け、イワシは、他の魚とともに再びモントレー・ベイで収穫されています。 キャナリー・ロウ (Cannery Row) ツアーの道中に他のオーディオツアーの停留場もありますのでそちらにもぜひお立ち寄りください。エド・リケッツ研究所(Ed Ricketts’ Lab)としても知られる太平洋生物学研究所(Pacific Biological Laboratories)は800 Cannery Row に位置しています。また、研究所の向かいには通りを挟んで缶詰工場の作業員の当時の日常が伺える小屋、ワーカーズシャック(Worker’s Shack)が3軒建っており、マッカビー・ビーチ(McAbee Beach)もあります。それぞれに豊かな物語があり、キャナリー・ロウの歴史の一環を担っています。